疾走

ポエマー長文地下室バンギャル









死にたいも生きたいもどちらも願望で言うなれば未来の言葉で、その時点の先が広がっているという仮定のもとに吐ける言葉なんだろうと読み返して考えていた。だから、思うとすれば、「あのとき生きていてよかった」と「あのとき死ねばよかった」だけなんだろうと思っていた。


結局見れなかったけど。きっともう見ないだろう。開くこともしないだろう。泣きたくて泣けないときだけは写真集を開くかもしれない。見なくてはならないという気持ちで見始めて挫折したから、多分もう、何年も何年も経って本当の意味で忘れた頃にああそういえばと手に取って、やっと思い出して泣けるくらい、それくらいの時を経て見れたら良いなと思う。未来の話は嫌いだが、来ない可能性の方が高いであろう未来の話は少しだけ出来る。


何度となく呪って、何度となく愛して、忘れる忘れない、もういいやっぱりまだ、をずっと繰り返してきた。狭い範囲の少ない語彙で自分の感情をやりくるめるには思いつくままに吐いては捨てる、それが精一杯だった。だけど本当のところ、何一つ言葉になんてなれないことは最初から分かっていたことなんだよ。ただそれでも言いたかったんだ。好きもありがとうもふざけるなも許さないも全部全部どうしようもなく本音だった。ずっと好きだったし、ずっと好きでいたかった。それを不可能にしたのは自分なのか相手なのかは知らないままでいい。あやふやにしておきたい。


cali≠gariが、昔追いかけていた人や今も追いかける人たちをも敵に回したとしても猶言いたい、cali≠gariというのは第7期だけがわたしが言うところのcali≠gariだ。そのcali≠gariが、わたしの人生の一部分を作ってきたのは間違いなく事実で、自分の知らない感情や景色をたくさん教えてくれた。雁字絡めな心も手持ち無沙汰な身体もどちらをもいろいろなところに連れていってくれた。雨が降り続けている白い箱の中から手を引いてくれたように思う。本当に、本当に大好きだったんだよ。思い出せなくても。遠い遠い距離と時間のその先で泣いている自分をただずっと見ていてくれたのは他ならぬcali≠gariだった。


怒りも、悲しみも、楽しさも、嬉しさも、果ては恨みも憎しみも、苦しさも、この上ない幸せも、全てをごちゃ混ぜにしたどうしようもない切なさも、全部cali≠gariを好きになって知ったことだった。好きになって良かったよ。cali≠gariに出会わなかったら今のわたしにはなっていなかった。それもまた間違えることのない事実だ。cali≠gariに出会わなかったら、もっとずっと生き苦しかったと思うんだ。随分と楽になった。だから結局のところ、救われてしまっているんだ。



あれだけが夢だった。


あれこそが恋だった。



どんなに探しても考えても辿り着く最後はありがとうだけなんだ。多分これからも何度となく呪って愛してを繰り返しながら忘れていくだろう。もういいとやっぱりまだを言い続けてやりくるめていく。それでいい。
永遠に言えないことは、永遠に言わないままにしておくよ。




一生に一度の恋だった。


何よりも、誰よりも、好きだった。