疾走

長文ポエマー地下室バンギャル

♪:FLOWER




浜崎あゆみを聴いています


ビックリじゃない?わたしが浜崎聴いてるのめっちゃビックリじゃない?わたしはビックリしてる!
あとなんとなくあゆとは呼べない!呼ばない!

YouTubeでたまたま出て来たのがFLOWERのPVで、ちょうどはてなブログの記事で浜崎あゆみに関するものを読んだところだったから久しぶりに聴くかと何気なく再生したらとても良かった。
PVそのものはベタだと思うのだけど、アレンジがすごく重くて良くて(結局そこなんだね~)、嫌みでなく金のかかった音がする。修練の結果としての高価さというか
そして何よりも、今改めて、多分ほんと10年以上ぶりに聴いてみて思うんだけど、歌がね、うめえの
歌が上手い
それはテクニックとしてというより表現力とかエモーショナルな面で上手いなって。あれだけの栄華を誇りながらずっと孤独だった人の歌
今の女性アーティストの誰にこれが描けるんだろう、なんて思ってしまうほど良かった。またアルバム借りてくるわ





ビアズリーみたいだな、と思って、そう言えば大学の頃比文でやったな何か曰くのあるというかスキャンダラスな出来事がある人だったようなと思ってウィキぺディアを見たら、最後らへんの影響を受けた人の項に名前連ねててやっぱりなわろたと思って、それがすぐ分かるのも大概かぶれてるなと思ってしょんぼりしたよ。
やめようと思ってやめることは出来るしほんとは黙ることももう出来るんだけど、それをしたらむしろ可哀想な気がしてきてしまったよね。何がかはどうでもいい。ずっと作家と作品論みたいなものを読みたくてでも探しかたが分からなくて、こないだ偶然、またはてなブログだけどとある記事(すごく興味深い記事でした)で「作者の死」という考え方があることを知りました。ロラン・バルト。めも。ただ小説は切り離せても歌詞はどうだろうな。わたしが興味があるのはあくまでも歌詞であって小説じゃない。研究しようにも茨の道なんだよなあ。とまあそれは置いといて、言葉を人格と切り離すのは非常に難しいとわたしは思う。自分の性格的に。で、作者の死。だけどわたしはやっぱりあの人が吐く言葉だから意味があると思うしどんなに変わっていても作者の死は訪れてはくれない。あの人が吐くから意味があり、言葉があるから意味を求めあの人を知り、好きになった。だから買うよ、買うけど、もう初回じゃなくていいかな。昔の自分に許可を求める。もういいかな。もう諦めていいかな。コレクター気質だってこだわってきたけどもう。どうせDVDなんて見れないから。恨むから。厄介なもんを抱えてしまったもんだ。好きにしろよ。ギブアップという表現が我ながらドンピシャすぎて笑っちまうよな。降参、モームリ、ごめんなさい。白旗、セコンドのタオル、10カウント、ギブアップ。あの人の言葉だけが、まだ可能性が残されているとすればあの人の言葉だけだから、望みがどんなに薄くても、見たいから、だけど多分また諸手を上げて項垂れてフリーズするんだろうな。勝手なもんだよファンなんて。そしたらほんとにやめられるかな。こうして書くことも、みっともなく執着することも、浜崎の歌詞がしみるなあ~なんてつまらない重ねかたをすることも。あの人を諦められないことも。思い出せない大事なことだけを大事に思い出にしておきたい。思い出せないほど幸せだった。あの時間があったからわたしは今職があって人と話せて外に出られるんだから、例えもう二度と思い出せなくて、うすぼんやりした追体験さえも許されなくても、それでもいいから、幸せだったという事実だけを信じて覚えていたい。死んでも許さねえよバーーーーーーーーーカ!!!!!!!!!!ふざけんなよ!!!!!ふざけんな!!!!!何でだ!!!!!何であんな、ねえ、 結局怒っても怒っても最後には泣きたくなって腹が立つ。何も沸き立たないのに、毛の1本も立たないのに、何かを言える資格なんてもう無いのに、あーあ、あーあ。


優しく笑ってた君はどこへ消えたのでしょう

凋落と嗤われた歌姫がわたしの気持ちを歌っているよ!寝るよ!クソ!明日髪切ってくる!明日の次の休みはライブだから!楽しむことを復讐にする醜さで生きていくしか厄介なもんを放り投げる手だてはないのです!