疾走

ポエマー長文地下室バンギャル

♪:深夜、貨物ヤード裏の埠頭からコンビナートを眺めていた








残念ながらタイトルを正確に記憶出来ません。




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http://ataso01.hatenablog.com/entry/2017/05/29/210908
すごくよく分かります。




音楽に乗せられた言葉が好きで、よく「歌詞が良い
バンド」なんて感じで検索をしていた記憶があります。本来は言葉の羅列や文章が好きだけど、本は両手を拘束されることに抵抗を感じて苦手でした。だからわたしの語彙や文章の出所は新聞や教科書、漫画、歌詞カード、所謂携帯小説など比較的雑多で俗なものが多く、書く文も口語的で、かたい文章を目の前にすると噛み砕くのに時間がかかってしまい思考が止まり、そのおかげで大学の時分はかなり苦労しました。
以前の記事で、cali≠gariというバンドを一度聴いて諦めて、そして再び聴くようになったときに「このバンドは避けて通れない気がすると感じた」と書きました。それも恐らく「歌詞が良いバンド」で検索したときに目に留まったことが大きかったように今は思います。


「明日の思い出作るから、僕は僕になるよ。」


cali≠gari、引いては桜井青の作品は、自分の人生で一番だと言えるcali≠gariというバンドに個人的に禍根を残す出来事があった後もやはり特別で、中でもその桜井青本人が特別だと名を指した「冷たい雨」という曲、そしてその歌詞には随分と助けられてきました。
これ以上の言葉にはきっと金輪際出逢えない。
そう確信しているからこそ文句を言い罵倒をしそんな自分に嫌気が差しながらも新譜を買い歌詞を読みコピーひとつにガタガタ抜かしながら過去の思い出に浸り続けそうして掬われ続けています。

大人になったら自分ではない誰か他人になりたいです。

今なら言葉に出来るけれども、当時はそれを言葉にすることが出来ず、出来ないほどにぼんやりと感じていました。小さい頃の将来の夢なんてなく、今も未来の話は嫌いです。性分に計画性が無いのです。自己実現にも興味がない。わたしはわたしを離れたかった。
すれ違う人を誰彼構わず羨んで、あああの人はキレイだからいいな、あの人はちゃんと仕事してていいな、あの人は子供がいるから人に大切にされた経験があっていいな、子供は泣き叫べば言うことを聞いてもらえると思ってていいな。細くていいな、かわいくていいな、キレイでいいな、男でいいな、他人でいいな、他人がいいな、自分なんて厭だな、死にたいな。

「明日の思い出作るから」
というのはとても巧みで、未来を過去にする、それは即ち生きるということで、「死のうと思うのはやめよう」「生きていこう」そんな読み取りかたが出来るのではないでしょうか。だけどそれは決して仰々しい決意や情熱なんてものではなく、何かもっと諦めのような、もっと寂しいもののような、弱々しくも折れないだけの芯を持った、しなやかな意志なのだとわたしは思います。
死のうと思うのはやめるから、「僕は僕になるよ」。美しいという言葉が下品に成り下がるほどの、悲壮で、強い、遠い言葉。 僕が僕でなくなることは、きっと僕が死ぬことなんでしょう。明日の思い出を作るのも、僕が僕になることも、共に「生きる」という意味を含む。わたしが10代のときにほしかった強さはこういう強さでした。
これはファンの欲目ではありますが、桜井青というひとの作るものに救われてきた人は絶対に少なからずいて、その誰もが彼のこういう老成した少年のような青さそして灰色のような強さに惹かれたのではないかと思います。


あれだけ熱心に通い、それこそアルバイトで稼いだお金を殆どバンドに費やしていました。問題はそれを成人してからやっていたことです。だから毎日危惧があった。このままでどうしようどうなるんだろう永遠にこれが続くんだろうか。好きで追いかけていながら少しだけ恐怖していた。永遠に続くことを望むというのは、終わりを望むこととイコールなのかも知れません。

何度となく、という言葉さえ、何度となく言ってきました。どうしても許せないこと、いつまでも解せないこと、なんとなく謝りたいこと、伝えることを叶えないほどに強い感情、まだ消えません。呪いのように呟き堆積した言葉たちが自分自身の感情と行動を縛りつけても、それでも口を閉ざすことは出来なかった。そうでなければ忘れていく。風化していく。いつか無かったことになってしまう。それが厭だった。あの空間は確かにあり、確かにわたしを立たせ、歩かせた。その空間を、その人たちを、無かったことになんて、絶対にさせたくなかった。それだけのものをもらい、そして背負わせてきた。言葉にさえならない領分で、わたしは自分の言葉の理由さえ、あのひとに預けてきた。



「夢を信じていなければーーーーー。」

今となっては数えられる方が珍しくなってしまったダッシュと句点。これがたまらなく分かりやすく、特徴的で、好きでした。夢を信じていなければ。夢を信じていなければ、わたしはどこへ行き、どこに辿り着いたのでしょう。夢を信じていなければ、わたしはどう生き、どこに辿り着いたのでしょう。
再び赴くことに無駄なドラマ性を持たせていると言われればそれまでです。別に、金と休みと作品の兼ね合いが悪くなかったからチケットを取っただけ。それだけで説明は事足りる。
だけどそれでも、人生で一番と思えるほどの夢と出逢えた幸運な人間として、夢を信じていなければ、に続く言葉が、肯定的な意味を生み出す否定語であることを願います。