疾走

長文ポエマー密室バンギャル

粗雑であれ










「あのバンドはわたしをいつでも昔のわたしに戻してくれる」

大学の友達が言っていた言葉を今も覚えている。印象的だった。




イヤホンがまだ開放型からカナル型に移行し始めた頃、わたしはまだ高校生だった。音楽を聴きながら自転車に乗りたかったので、さすがに全部塞ぐのはなあと思って開放型を好んで選んでいた。しかしどうにも開放型が手に入らなくなって、自転車ではなくバス通学にした頃、仕方無くカナル型を使い始めたんだけど、あれはなんというか、薬のような類いのものに感じた。
地元の人間しか知らないような無理矢理行かされた進学校の母校が嫌いで、低い鼻を高くして人を嘲笑う動物みたいな同級生が嫌いで、自分が嫌いで、誰に対しても線を引きたがったから、他人の声は全部耳障りな雑音でしかなかった。湿っぽい熱風が増幅させる全部の音が癇に障った。
一切の雑音をシャットアウトして自分が選んだ音だけを耳に入れてくれる。なんといえばいいんだろうな、仏具とか神具のようなもんだ。同時にそれは顔を隠すマスクのように病的な癖になって、逃げるように、手放せなくなっていった。
自分が選んだ音楽は、わたしをどこにでも連れていってくれる。見たことも聞いたこともない場所、行ったことのない記憶まで、どこにでも、どこへでも。
口を開いて話す言葉より頭の中で生まれて消えていく言葉の方が多い。その頭の中で生まれて消えていく言葉が、他人より多いのかも知れないと自惚れていたあの頃、そういう自意識を全て溶かして流してくれる音楽は貴重だった。


春は嫌い。夏は楽しくない。秋は面白い。冬が好き。
夏は楽しくないし、人がたくさんいるし、暑いし汗が出るし、怠い。目で仕入れる情報を処理するのすら怠い。だから最近は夜テレビの電源を落として音楽を聴いている。久しぶりとさえ思わないほど久しぶりだ。
外部を遮断するイヤホンが無くなっても平気になった。いつからかは分からない。多分単純にもう面倒なのだ。他人の声に耳を傾けること。雑音を雑音と認識すること。耳障りだなと自分の快を妨げるだけの体力と気力。もうほとんどのことがいつの間にかどうでもよくなって、他人の煩わしさに手を焼くことを放棄して、勿論それは他人の優しさに触れる機会も放棄することと同義だが、そうして自分の繊細だった小さな部分を摩耗させ、磨り減らし、風化させたとき、音楽は、少しだけ貴重ではなくなった。


作品は裏切らない。これからも繰り返し同じように感じるだろうね。だってそれはもうしょうがないから。わたしがまだわたしと拗れていた頃の傷。どうやったって消えないのだ。
300枚あるCDが他の人と比べて多いのか少ないのかは分からない。多分全然少ないんだと思う。だけど、CDはまだペースを落としながらも増え続けているし、居を移したとしても連れていくであろうCDも、変化はすれど、減ることはたぶん、ない。


夏はムックの家路とcali≠gariのさよなら、スターダストが聴きたくなる。スターダストはともかく、家路はほぼ夏しか聴かない。聴かないというより、能動的に聴きたいと思うのが多分夏だけ。季節ごとにそういう曲があるのはきっといいことだ。その季節にだけ咲く花のように、人生を彩ってくれるだろう。ああ、陳腐で興醒めする表現だなあ。


「あの頃のわたし」が彼女のいつを指すのか、それは分からない。今でも交流がある大学の友達、わたしが「友達」と呼べる数少ない人間の一人ではあるけれど、こみいった話をしたことはほとんどない。子供だった頃にあったことなんて知らない。だけどとても印象的だった。それは強烈に、燃えるほど、何かの「ファン」になった経験のある人間しか共感し得ない表現かもなと思うのだ。

キレイサッパリ忘れてしまえばいいし、忘れることも多分出来る。地元の人間とは関わりたくないし、金輪際関わるつもりも、無い。自分でもどうにもしがたい嫌悪。恥や呵責とがっちり絡んだ憎悪。それは間違いなく、自分に向けられているものだ。

だけど、作品は蘇らせる。わたしを「あの頃のわたし」にいとも容易く帰らせる。嫌でもだ。わたしがあの人の名前をフルネームで綴るのは、名前を呼ぶ行為というよりもむしろ記号的な唱え言葉に近い。音楽だけがわたしの背筋を伸ばしてくれていた頃からずっと、その人の名前は特別だった。呼べば少しだけ励まされるような気がした。




大学の頃、引きこもる前に出会った先輩が、「頭でっかちになるな。自分を好きになれ」とわたしに言ってくれたことがある。別になんという話をしたわけでもない。特別仲が良かったわけでもない。だけど、きっとその人は見抜いたんだね。わたしが自分を嫌いなことに。自分をやめたいと思ってることに。それが原因で、他人とも上手くやれないことに。大学1年のときに4年生だったその人とはそれっきり。その人が卒業して、わたしがそのコミュニティから逃げて、それで終わり。今何をやっているのか知る由もない。そうやって驚くほど簡単に無くなっていく縁だけど、言ってもらった言葉は今も覚えている。ああ、もっと話してみればよかったのにね。法事で山に向かう車中で、ふとそんなことを思い出した。面と向かって「自分を好きになれ」なんて他の誰も言わなかった。わたしもきっと、他人にそんなことは言えないだろう。
ありがとうと、今は思う。

自分を好きになることは、多分出来ないよ。多分一生出来ないよ。出来ていたらわたしはこうじゃなかったと思うよ。
だけど、好きになれなくても、「わたしがわたしになる」ことは出来る。今は、わたしはわたしだと、胸を張れなくても、前を見れなくても、ちゃんと言える。