疾走

長文ポエマー密室バンギャル

感情の弾劾










前半はふまじめ、後半はまじめです。




関西3箇所のチケ引き換えてきた。まだ休み確定してないんですけど…ていうか来月まであと1週間なのにシフトが確定していないとはこれいかに(^-^)行かせてくれMERRY~

ところでFC旅行がヤバイの極み。お昼休みに推しが説明する動画見たんですけどかわいくていやされた…でもFC旅行、某所が逃走中みたいになる未来しか見えないし、そもそもFC旅行っつーのはどこから発生した文化なんです??
いやーまあ誕生日だし温泉には連れてってあげたいけど自分はいいというか接触苦手だし土日だし厳しいなあと思いつつやっぱり温泉には連れてってあげたいから「旅行券プレゼントじゃいかんのか?」「一口1000円のクラウドファンディングみたいな形式を取ってくれるのであれば金銭的に支えたい」と思ったんですけど、これ…クラウドファンディングっていうか…もしや…パトロン…っていうか…所謂……貢ぎ…?ということに気付いてしまった僕は私は俺は……

あと無邪気さは時に凶器なのでいきなりあのインスタほんとやめてって思った。ほんっとにほんっとにダメなの昔からこの世のなかでいちばんダメなの、せめて頼むからちゅういがき!!!!して!!!!!!絵文字だけじゃだめ!!!!!!!至近距離で見ちゃったよ目にこびりついちゃったよもおおおおおおばかあああああああああああああ
もおーあまりのあまりさに推しのことほんのちょっとだけキライになりました…!!本命にやられてもキライになる…!!だめぜったい…!!!!
30分はゾワゾワしてた…うううううう
蛇も蜥蜴もイニシャルGも(いやGは見たくはないが)まだ大丈夫なんですけどほんと最初のやつだけはどうしても無理、絶対やだ、多分わたし前世あいつに殺されてんだよ

伝わりにくい話ですいませんが分かってくれる方だけ分かって頂ければよいです…元ついーとを引用するのもいやだぁ…😭😭😭








何かを好きでいること、それに必要でもないのに藻みたいについてくるいろんなもの、考えれば考えるほど、「ぜーんぶ無駄」って気持ちになるよ。どうしようもないことだけど。

他所様の畑に踏み込んでいくのは違う気もするので詳細な言及は致しませんしやっぱりどこか最終的にズレていってしまうので最早無関係な域なのですが、あくまでもそれを受けての雑感を。


否定されたいわけでもまして肯定されたいわけでもなく、ただ自分が感じたことを書くのにも全方位に断りを入れないとなかなか書くということが出来ないものです。
ああ言いたいことが溢れてくるのに言えることがとても少ない。力量の無さなのか、度量の無さなのかは分かりませんが。

母数の問題か、ただ見ている人がとても優しいのか或いは無関心なだけなのか、わたしがこれだけ文句を垂れていても今だかつてうるせえとか黙れバカとかそういうことを言われたことは一度もないです。直接もないし、目にするところでの間接でも一度もない。それは多分ありがたいことで、でもだからこそ誰にも何にも言われないことを良いことに言わなくていいことまで書いてしまっている気がしますが、誰よりもそれを「正しい/正しくない」「(正しさで)見るべき/見られないべき」を考えているのは恐らく他ならぬ自分自身なんです。

書くということは気持ちを表明することでもあります。自分の立場を明確にし、主義を主張することにもよく似ています。もしも拡散されれば、支持を得れば、それはきっと大きな声になり、波を立て、誰かを巻き込んで更に大きな声になります。いつかそれが団体の総意と見られてしまう可能性がある。いろいろな意味で極めて危険な状況に陥りかねないことです。
だけどその「大きな声」の元は、本当の元は、一個人のどうしようもない小さな小さな感情です。主義主張でもない。似ているけれど根本は違います。書くことは難しい。ニュアンスまでの全てのことなんて伝わらない。他人の声を伴って、誰かを不快にさせるかも知れない。だけど、その感情まで非難される謂われなんて、本当はどこにもないはずです。

わたしが思ってきたことも、書いてきたことも、伝えられることこそないけれど、蓋し誰かを不快にさせている。幸いみんな見て見ぬ振りをしてくれるからわたしは続けていられるけれど、一個人の純粋な感情がそこまで糾弾されなければならないのか、自己防衛かも知れませんが見ていてどうにも辛いものがあります。主張ではなかったはずなのに。元々は、言うなれば、乱暴に言ってしまえば、きっとただの泣き言です。その泣き言に加えられているのが、激励のない叱咤に見えてしまって、そういう自分さえも辛くて嫌なんです。



「共感しました」という言葉を初めてもらったとき、「救われたような気持ちになりました」と初めて言ってもらえたとき、わたしはそれでやっと、自分の中の「正しくない」という気持ちに折り合いをつけることが出来ました。誰にも何にも言われないことは、楽ではありますが宙ぶらりんでい続けることでもあります。好きだからこそ悩んで、苦しんで、自己嫌悪しながら吐き出した気持ちに寄り添ってもらえたことは、言葉にしがたいほどに有り難く、こちらが救われる気持ちになり、今でも宝物のように嬉しい思い出です。正しくなかったかも知れないけれど、間違っていたわけではなかった。この感情があって良かったんだ、とほっとして、許されたような気がして、泣きそうになったことをよく覚えています。

傷つけられて黙れとは思いません。
だけどわたしは書く人間として、気持ちを表明する人間として、どんな感情にも、或いは主張であったとしても、出来るだけ「寄り添う/寄り添わない」というただそれだけの選択肢を取れる自分でいたいと思うんです。