疾走

長文ポエマー密室バンギャル

にじゅうななちゃいでちゅ






年齢に微妙もクソもあるかよと思うが、悔しいことにあるのである


最近読んだ良記事から

massarassa.hatenablog.com


27歳である。わたしも。正直10年前は自分が27歳になることを想像してもいなかった。27歳と聞いて思い浮かぶのは「名だたるロックスターが逝去した年齢」、まあ誰が亡くなったのかひとりも名前を思い出せない程度には無知で、音楽が好きったって知識があるわけでは微塵もなく、「これだからバンギャは」とか「これだから女は」とか言われるタイプなんですが。

20代、人生80年とするとまあまだまだ若い。多分。職場のパートさんたちにも「まだ若いんだから」と言われる。それが本心かどうかはまた別の話だけども、自分自身も「うんまあ多分まだ若いほう」くらいの認識。だけど女性としての27歳は「そこそこいい歳」。流石に若造とは言ってもらえない。若造って男性にしか使わないかな?やっぱり男性とは違う、ような気がする。
卒業と同時に人間関係リセットみたいなスタンスで生きてきてしまったので又聞きばかりなのだが、高校の同級生は勿論のこと大学の同級生にさえ結婚のビッグウェーブが来ているらしい。らしい、でしかないが。このビッグウェーブ、乗るしかない、と又聞かせてくれた同期が言う。そうか、そういう歳なんだな、確かにな。頑張れよ、と他人事。

普通の(理想的な)人が、普通の(理想的な)人生を送るタイミングを悉く逃してきた。中学で部活を頑張るとか、高校で同級生に恋をするとか、新卒で就活に苦労するとか、社会人になって仕事して結婚するとか、そういう人生の普通の(理想的な)ステップアップやイニシエーションみたいなものを全部拒否してきた。人と関わることも拒否してきた。例えばわたしは恋人がいたことがないのだけど、実は厳密には1週間だけ付き合ってみたことがあって、「不定期ではあるがまめに連絡が来る」「相手が自分のことを彼女と認識している」という状況があまりにも自分の空間的時間的いろんな領域の侵害に思えて、猛烈に気持ち悪くなって「やっぱ無理だわ」って無しにしたのである。
でもそれでわたしは密接に人と関わることにどうやらいろんな意味で拒絶感があるのだと学んだ。特に恋愛面がどうにもならない。それ以来、最期は孤独死ルートかなあとぼんやり思ってる。自分が好きにならないと意味がないけど、誰のこともそういう好きにはならないし、なれない。だってみんな人間だし、自分のことも好きになれないで他人なんてましてやという話だ。

人と同じではないからといって、「私は人と違うやり方でこれこれこうしてきました!」と高らかに宣言出来るような履歴でもない。結果が成功ではないからである。成功譚にならない以上、前提もまた成り立たない。結局のところ人より劣っているだけ。単純に逃げてきての結果なので、自業自得で出口が見えない、気分、である。
現実は辛い。知らんけど。しんどいことを言われることからさえも逃げているので、現実は辛いぞ、と脅してくる人も、或いは諭してくれる人も、周りにはいないんだけど。だけど、なんとなく、辛いんだろうなということだけを毎日毎日感じている。


やるべきこと、仕事に融通を効かせてライブに行くことは「子供」なのかな。こちらの文章の論旨がそこじゃないのは理解しているし、奥様の言うことも筆者の言うこともめちゃくちゃ分かる。本質をではないかも知れない。あくまで表面上でしかないけれど、とにかくめちゃくちゃ分かる。わたしも流石に仕事をとる。それが「大人」だし、子供ではいられない。27歳だもんね。

だけどそこに自分の大部分がある場合はどうしたらいい?
GWの土曜日、仕事休みたいんだけどやっぱり「仕事ナメてる」ってなる?仕事をナメることの何がどうしてどういうふうにだめ?
子供でいたい、大人にはなれないから。
自分のことが大切じゃないから大切にしようと思うんだ。自分のことを大切にしたいと思ったとき、思いつくのはどうしても「楽しいことを自ら楽しみにいく」だけしかない。楽しいことにしがみついて、現実を見ないようにしてるだけなのかも知れない。それでも現実と相対し、いつか心が折れてしまうより、潰れてしまうより、ずっと良いような気がしてしまう。
折れることを前提に話を進めているところが子供なんだろうなとは思うんだけど。

家族を持てばいいのか、仕事を優先すればいいのか、何をどうすれば大人というものになれるのか、通過儀礼を避けてきたわたしにはまだ分からない。永遠に誰もなれないものなのかも知れない、大人。

でも、大人になることを諦めることとイコールにはしないでほしいとどうしようもなく願ってしまうよ。




10代のとき、青春だなと自らのことをあほっぽく笑っていたとき、死にたいもう朝なんて来るなずっと夜のままがいいと泣いていたとき、そういうときに聴いていた曲たちを、わたしは今ろくに聴けなくなってしまった。事の発端こそバンド側だったけれど、結論は常に受容する側が出すことなので、そういう結論に至ってしまったわたしにのみその結果と理由がある。
10代の頃に「自分のもの」だった音楽たちをなぞる機会がまだあることをとても羨ましく思う。余談だが。
わたしには多分もう無い。地下へ降りる階段を緊張しながら下ることはきっと。チケットを握り締めて待つ時間さえ。笑っていられる度量がもうないからだ。何度も考える。もう一度。次こそは。またいつか。もしかしたら。もしかしたら。
そうして休みとライブがたまたま重なる度に自嘲気味に笑ってしまう。今じゃなかったなと。
楽曲は、作品はずっと裏切らないと頑なに意地を張っていて、意地で以て信じていて、だけどそれを、人なしでしか想うことができないのだ。もう少し上手く片付けられたらこんなふうには、と思った。思っている。まだ。頭文字の小文字の丸みを見る度にワクワクしていた。今は出来れば目にいれないでおきたい。その結論に至るまでの自分の認知の歪みを恨んでいる。けれど、せめて感情には寄り添いたかったから、しかたがなかったと力なく溜め息をつくことしか今は出来ない。

今がダメでも、またいつか、があるよ。
だけど今がダメだから、いつかもない、のだ。




note.mu

後々やるぞ!!

と息巻いたはいいが、好きなものをただ好きと言うことって、その先を考えるとめちゃくちゃ難しいのです。