疾走

長文ポエマー密室バンギャル

♪:さよなら、スターダスト






夜行バスに乗るときは必ずさよなら、スターダストを聴くと決めている。…決めているというとちょっとニュアンスが違うかも知れない。聴かなきゃいけないような気がするといった方が正しいんだろうか。配布の原曲バージョンと、野音でのライブバージョンと、渋谷O-EASTでのライブバージョンと、あと4のジャズアレンジバージョン。4曲ひたすらリピートしながら地元に帰ってきた。12年のツアーで配布された原曲音源に至っては家に3枚もあるし、そのうち2枚は未開封なのだけど、未だにどうしても手放すことが出来ない。
「好きな曲はなんですか」
究極の問いである。大切な曲はと訊かれればなんとかアルバム1枚程度には収められるだろうけど、好きな曲と訊かれるともうキリがない。あれもこれもそれも好き、どれも好きだからだ。あとこのバンドに関してだけは「好き」という言葉が重すぎる。選びようがない。
だけどどうしても、今後一生ライブに行けなくなるのと1曲選ぶのとどちらがいいと訊かれたらおそらくこの曲を答えます。それでは聴いてください、「さよなら、スターダスト」。



あれから幾分か時間が経って、難儀に身軽なフリーターだったわたしもなんとか一応正社員になって文句を言いながら働いている。アルバイト時代に比べたら収入も増えた。でも金銭的な余裕もそうだけど、どちらかというと仕事のために体力を消耗する手段をなるべく避けるようになったって理由の方が大きい。悲しいなおい。
夜行バスに乗る機会は格段に減った。
大学時代からフリーター時代は毎月のように高速バスや夜行バスを利用していた。東京駅を発着点とするバスは必ず日比谷公園のそばを通る。新宿発着の方を圧倒的に利用していたのでそれに気付いたのは最近になってなのだけれど、見覚えがあるわけでもない、意識もしていなかった何車線もあるあのだだっぴろい道路を見るだけで即座に今自分がどこにいるかが分かってしまってそわそわする。ぞわりとしてしまう。やっぱりまだ二度と行きたくないなと思う。行けないな、もう。…行きたくない。
日比谷公園のそばを通りすぎて入る真夜中の高速道路は、郷愁が助走をつけてわたしを殴りにかかる。



数年前に心血注ぎ込んだバンドに行かなくなったあと、なんとなく見に行くようになってハマり、今専ら通っているバンドには似たようなルートを辿った人が何故か何人かいて、それは面識があるとないとに関わらずそうらしいのだけども、似たような境遇であっても見方や感情やスタンスはやっぱり人によって違う。当然の話だが。
会場で会えば話をしてくれる人もいて、何度か「今どうなんですか?」とか、「今度の行きますか?」とか、「こないだの音源聴きました?」とか、そういう話をしたりした。「私はもう全く行ってないです」「節目だけ行ってます」「ソロだけ行きます」いろいろだ。そこに付随する感情ごと、さまざまだ。
…だよねえ。だよなあ。そうだよ。
でもおなじなのは、結局、多分あの頃を忘れることが出来ない人がいて、今通っているバンドが他にあってもなくてもあの頃があまりにも大事で、長い人生で一瞬だったとしても自分とバンドが重なった時間があって、それが本当に本当に大事だったということ。純粋な好きだけではなかったかも知れない。執着心も、意地も、あるいは嫉妬心なんてものも好きという気持ちの中には含まれていたのかも知れない。だけどそれを含めて、どうしようもなく焦がれた事実があったということ。
SNSではたくさんの人と交流を持つタイプではなかったのであのあとの反応を知ることもなく(何より見せるべきではない心情をネット上で吐露をするわたしのような思慮の浅い人間は少ないんだろう)、何年も何年もうだうだと考え続けているのもあんなに怒ったのも最早自分だけなのではないかと思っていた。ある意味自惚れている。
そんなことないよなあと、違うバンドのライブ会場であの頃を知る人とあのバンドの話をする度に思う。わたしは最初、話題に出すのも少し嫌だと思っていた。忘れられないから忘れたかったし、怒りだろうと悲しみだろうと言えば言うほど死ぬほど好きだったあのバンドと自分を傷つけているような気になった。だけど今となっては、時々そうやって話題に出してもらわないと記憶の片隅に押し流されてしまうばかりである。
4人だった頃を見たことがない人がいる。3人のあのバンドしか知らない人がもういる。それがとても悲しくて、悔しくて、まあそこはあくまでも途中下車した人間の勝手な独り言なので見て見ぬふりをしてほしいのだけど、やっぱり切なくてしかたがない。
最高だったんだよなあ。思い出せないけれど。好きだったんだよなあ。もう忘れたけれど。とんでもなかったんだぜ。

何であんなに怒れたのか何が許せなかったのか改めて考える。自分ばっかり何年もと思うから、最初はただただ悲しくて寂しくて辛かっただけのものが何故憎悪に反転してしまったのか答えがほしくなる。
数年経って言葉にするのはそれこそ過去を引きずった愚かな行動なのだろうけれど、数年経つと客観視出来たり単純化することがあるので今になってやっと言えることもあって、大袈裟に、敢えて陳腐でドラマチックに言えば、あれはわたしの「倫理に悖る」、砕けば要するに「マナー違反だろ」と思ったわけだ。たった一言で済んでしまった。マナー違反。蒸し返すのもあれなので詳細はネットで調べてもらえばいいと思うんだけど、振り返ってもやっぱりあれはない。ないわー!お宅あれはないですわー!ないなー!
そこはまだ怒ってるよ。それはきっともうちょっと許せない。思い出す度に憤慨すると思う。一生、生きてる限り思い出す度に腹が立つかも知れない。思い出す機会があればね。その都度怒ると思うよ。怒っていいでしょ。

可愛さ余ってなんとやらなんてなんだか言い訳じみててほんとはあんまり好きじゃないんだけど、残念ながらそれなんだろう。憎くなるほど好きだったってのも、嘘じゃないけど、やっぱりどこか言い訳みたいだ。大事にしたかった。普通に慈しむ気持ちで大切に愛したかったんだよ。出来なかったけどね。恋だったから。



時間が経って、他のバンドも楽しくて、口をついてくる言葉のすべてが過去形になって、そうやって、消えていく。



記録媒体であり記憶媒体だから作品が好きだ。
実際、ライブの雰囲気とかセットリストとかMCとかどんどん抜けていく。新しい経験に上書きされて過去のことはぼやける。どうやってのってたんだっけ、って分からなくなったこともある。フィジカルの記憶でも抜けるものはあっさりと抜けるのだ。
だけど作品を聴いていると鮮明に思い出すことがある。真夏の新木場STUDIO COAST、夜の湿気た空気、帰るときの息苦しさ、翌朝の絶望感。次を想って泣いたこと。
ものをつくる人間ではないのでこれは受け手の勘違いであり傲慢でもあるんだろうけど、作家は幸せだよなあと思う。こんなもん作れるなんて、残せるなんて。わたしは塵一つ残さず消えていくだけだろう。あなたがいつかいなくなっても作品は残っていく。そしてあなたがいつかいなくなっても、わたしは作品の中であなたに何度も出会うことが出来る。だから、幸せだよなあって。



青春が強く変わり果てても、思い出は僕になる。



言葉に出来ない領域を、感情を情景を、とても正確に鮮やかに、軽やかに歌詞に音にする。唸るほどうまい。言いようがないほどにうまい。でもそれだけじゃない。誰よりも人間くさいのにこの世のものは思えないところがあって、穢くもあるのに、何より嘘みたいに、美しい。ちょっとおかしいレベル。
天才だなあ。やっぱりどうしようもなく才能とそして修練なんだよなあ。どうやって生きてきたらそんなふうに書けるのか。何食ってんだろうな?酒と激辛ラーメン?わたしどっちも苦手じゃねーかよ。マネ出来ねーわ。
ああ、狂おしいほど好きだ、好きすぎた。
どんなこともあの頃の第7期cali≠gariには敵わない。音楽であろうが絵画であろうが他のどんなものであったとしてもあの頃の煌めきには遠く及ばない。桜井青以上に好きなバンドマンなんて永遠に絶対にいないし、桜井青と同じくらい好きなバンドマンももう現れやしない。そういうものなのだ。嬉しいんだか悲しいんだか、でもやっぱまあ、幸せなんだろうな。泣きたいくらい好きでいたのは。



もう大丈夫なんじゃないかって何度も思う。次はいけるんじゃないかって。だけどわたしが求めているのは青春をもう一度繰り返すことではなく、あの頃に帰ることなんだろう。戻ることなんだろう。過去を今にすることだ。だからきっと、二度はない。叶うことはない。
それでも、幼くても青くても、悔しくても憎くても、無様な転び方で惨めに終わったとしても、こうして振り返ることが何の意味も持てなくても、あれだけが、どうしようもなくわたしにとっての運命だったなと、夏を見る度に想うのだ。






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今週のお題「あの人へラブレター」