疾走

長文ポエマー密室バンギャル

♪:セーラー服と機関銃







部屋の模様替えをしてみた。雑然と置いてあるものを全部納戸にいっかい押し込めてみた。溜まっていたレシートとか振込が終わった用紙とかもゴミ袋に突っ込んだ。もう着ない盤Tもツアータオルも処分したし必要ないバッグとか使ってない財布とかもダンボールに詰めて売るための発送準備もしてみた。今のところ、とりあえず、恐らくは過不足のない部屋が出来た。
さて、暇である。
毎日の服を制服化したり、持ち物を減らして片付けをシステマチックにすればそれについて悩む機会や時間や労力も減らせるってのは確かにそうなのだけれど、その浮いた時間をめちゃくちゃ持て余しています。することがねえ。元々ねえ。
思えば生まれてこのかたずーっと収集癖持ちで、しかも質が悪いことにコレクションと自慢出来るようなタイプの収集癖ではないので結構な無駄遣いをしてきた。まず文房具、消ゴムから下敷きからペンケースから無意味に2つ以上は持ってたし鉛筆に至っては気に入った柄のが1ダース以上あった。あと衛生用品でしょ、カセットテープでしょ、雑誌でしょ、クッションでしょ、ブランケットでしょ、近年ではブランド品。一時期出費が本当にえげつなくて、最近は止まったからいいものの本当に買い物依存症でカウンセリング受けるべきなのではと考えてた。しかし止まったら止まったで非常に暇なのである。コレクター癖が一時的におさまった今、暇なのだ。暇。
毎晩虚無を感じる。
毎週見ているテレビ番組が終わって、電気を消して目覚ましをセットしたあとの、空白めいた時間になると虚無感がやってくる。
このままでいいのか、このままあそこで働いて、納得のいかないことを(文句は言うけど)とりあえずやって、特に何の変化もなくただ毎日を過ごすだけでいいのか。クォーターライフ・クライシスというものがあるらしい。それかも知れない。深刻に悩むのではなく、悩む日もあるが、こんなもんなのかなあ~~とアホ面しながら虚無を感じている。ので、この間ついつい「趣味 手芸 おすすめ」でぐぐってしまった。無心で手を動かすことが出来る趣味がほしい。わたしの趣味と言えば音楽を聴く・ライブに行くかブログを書くことなのだけれども、それ以外の何かがあればいいなあと思う。
https://mainichi.jp/articles/20171128/ddm/013/070/013000c
以前は全て読めたけどどうやら今は有料のようだ。
いつか読んだけれど良文だった。これを見て手芸いいなあと思った。だけど生んだ、形になってしまったものもどうにも持て余しそうでなかなか手が出せなかったりする。物を減らすために、増やさないために捨てて、片付けて、物の場所を決めて、そうして浮いた時間がまた物を集めさせる。それでは意味がないような気がする。
頓着がないだらしない人間なので普段は汚部屋がデフォルトなのだけど、模様替えによっていつになく片付いた部屋の、ニトリの安いベッドの上で縮んだ大の字になりながら、「自分には何があるか」「自分には何なら出来るか」を毎晩毎晩薄のろく思っては、何にもないし何にも出来ないじゃん、それでいいじゃん、生きて呼吸してるしめっちゃ上出来だわと結論づけて寝ている。
どこでかは忘れたけれどいつしかそれがストンと腑に落ちてからは随分楽になって、失敗も、人と話すことも、軽口も悪口も、大分どうでもよくなった。社会人になるまで待ってよかったなと思うのは、こちらが弁えれば周りが礼節をもって接してくれるところだ。学生時代みたいに無遠慮に不用意に傷付けてくるような奴は多分そんなにいない。出自や容姿をやり玉に上げられたりもしない。勿論中にはそういうのもいるんだろうが、まあそれは下手したらお互い様な場合もあるし、本当にどうしようもない場合は関わらないようにすればいい。あの頃みたいに泣いてるだけで済むようなわたしじゃない。ほら結局さ、どうせ死ぬんだし、みんな。お前もお前もお前も死ぬ。だからどうでもいい。お前を死なせるしわたしも死ぬ。だからなにもかも大丈夫なんである。

…大丈夫なのか?

大丈夫じゃねえな、多分…。

人を好きになることがそんなに偉いのかなあと思う。恋愛至上主義、ちょっともうウンザリしている。誰が誰を好きでもそれが異性でも同性でも全てが遠い異世界の話になってしまった。よくもわるくもどっちだっていいんですよ。お好きになさってくださいな。おかしいなあ、いつから逸れたかなあ。わたしだって母以外の大切な人はほしいけど、ラブソングはもう聴かないのだ。だから飽きもしない。別れと内省と自殺と克己の歌ばっかり聴いている。絵が描けたらなあ。写真が撮れたらなあ。手先が器用ならなあ。物が作れたらなあ。旅に出れたらなあ。お洒落が楽しめればなあ。運動神経が良ければなあ。楽器が弾けたらなあ。歌が歌えたらなあ。
子どもの頃から気性が荒くて性格が悪かったから、見下されないために見下すようにしていた。見下されないために見下すためのものがほしかった。だから学校の勉強をやるようにした。せめて何かしらは誰にも負けないでいたかった。それがどれだけ愚かで間違いだったのかも今なら分かるんだけど、それでもひとつだけ分かってほしいのは、わたしはあのとき勝負を放棄したりしなかったんだ。
文章が上手くなりたい。やっぱりそれがいいかな。文章が上手く書けるというのは、わたしがわたしの感情を取り零すことなく言葉に出来るということだと今ここでは思っている。そうすればきっとあの頃の可哀想な子どものことも守れるし、今の空虚さも容れ物を描いて満たすことだって出来るんじゃないか。ほんとは嫌だ、ただ息をして生きているだけなんて。何かを持っていて、何かが出来る方が良いと思ってしまう。だからせめて自分が今持っていると自惚れられるものにもっともっと自惚れて、いつか溺れてそこで死ねれば良い。そしたらきっと、こんなつまらない漫ろ歩きも笑って飛び越して、後ろ足で砂をかけられるんだろう。